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大地の声を聴く人 井上正文さん

更新日:2020年3月13日


2019年春まで神奈川県の山北町で町議としても活躍し、現在は「NPO共和のもり」理事長としても地域のために全力の日々を送る井上正文さん。

若い頃の話を聞けば「スチールギターってのがあってよ~、弦が一本切れたところで、全然へっちゃらで演奏できちゃったもんさ」と懐かしそうな笑顔。「学ぶ・考える・実践する」の3拍子そろった勉強熱心な行動派で、問題意識を持ちながら何事にも真剣に打ち込む鉄道マン。


これは井上正文さんが、結婚を機にお茶を作りを手伝い始めたころから現在までの、地域とお茶への想いのこもったストーリー。



地域活性のため、創意工夫し農業に取り組む

正文さんの暮らす山北町共和地区は、森林が95%以上を占めています。山の斜面を上り下りしながらの作業の大変さから、加齢にともない農業や林業をやめていく人も多く、後を継ぎたい若者も少ない状況です。


地域人口の減少とともに、耕作放棄地が増えていく。人が手入れをやめたとたんにその土地は荒れて藪と化し、イノシシの住処になっていく。イノシシが民家のそばに住処を作り始めたら、今以上に周囲の畑を荒らされる。そうして地域が疲弊していく・・・これは正文さんにとって火を見るより明らかなことでした。


「この見過ごすことのできない状況に手を打ちたい」


親の介護のために鉄道マンを早期退職したことを機に、民家近くの耕作放棄地だったお茶畑を借り受けました。


3メートルにも達したうっそうとしたジャングルのようなお茶畑を、だれの手伝いもなく一人で手入れする日々。木の状態を見るために剪定ばさみで1本1本丁寧に手入れしました。腱鞘炎になっても機械も使わず2年もかけたそうです。

その後見事なお茶畑として復活させたことを、「お茶に関して成し遂げたと言えることはほとんどないけれど、これは自分がやったことだと言えることだ」と話してくださりました。


誰に頼まれたわけでもない、彼は自分の心の声に従ったのです。



平坦ではないけれど・・・

その後のお茶づくりも決して平坦な道のりではありませんでした。


2011年の東日本大震災で発生した原発事故は、収穫期の茶畑を直撃。足柄地域の一部で暫定基準値以上の放射性セシウムが検出されたことから、地域全体で木を切る事態になってしまったのです。それは一番剪定をしてはいけない時期のこと。そこで傷ついた木の再生に3年かかったことを、今も悔しそうに話されていたのが印象的でした。


また、ある年には4月に雪が降り収穫直前の茶葉が痛み出荷できなくなりました。


しかし、ここでも彼は奮闘したのです。


収穫できない年の体験をもとに、お茶が収穫できなかった場合の保険を誕生させました。

この保険は2019年の霜被害に適応され、多くのお茶農家を助けました。


転んでも、そこから「学ぶ・考える・実践する」たくましさで道を作っているのです。


自らの畑も持ち前の直観力に従い工夫を重ねています。


農薬を多用するお茶づくりではなく、お茶の木を成型するときに風が通りやすい形にすることや、成型する時期を工夫することで害虫からお茶を守ることに成功しました。


次世代のお茶畑に向けて

次の課題は肥料です。


従来の農法では、窒素、リン・カリといった養分を多く与えることで「おいしいお茶」ができるという考えにもとづき肥料を与えていましたが、これに代わる肥料として、長年にわたりたい肥発酵の研究をしています。


今までにない農法の研究は周囲からの賛同を得られず、一筋縄ではいかない苦労もしてきたといいます。


でも、いつも高い目標を見つめて自分がまず行動する正文さんのもとには、「休日はお茶畑を手伝いたい」とボランティアの人たちも集うようになりました。



たくさんの人にこのお茶を届けるために彼の周りに、山北を水源とする川崎をはじめとする神奈川県内の関係者が集い、お茶プロジェクト『遊悠』も結成されました。


大地の声を聴く愛と貢献の人、井上正文さん。


智慧と自らの行動でたくさんの人をつないできました。


「優しい地域にしたいんだよ」という正文さんのお茶は、シンプルでやさしい味わいです。

共和地域のお茶畑も、お茶づくりのプロセスも平坦ではないけれど・・・

完全無農薬まであと1歩。


そのときに、どんな味になっているのか、どんな地域になっているのか、地域を超えたネットワークがどこまで広がっているのか、平坦ではない道の先をともに見ていきたいと思います(原文:藤山美夕紀/構成:飯島彩音)




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